黒田隆司が残した言葉
黒田隆司の著書として、『和歌山県の野鳥』・『川の中の杭』・『いつのまにか』がある。最後の『いつのまにか』は先生の半生にわたる調査・研究・部活動の中で、教え子・野鳥の調査・自然と開発に対する考え方を書きまとめた随想と短編からなる。付録として「いたおよぎ」と題して、小学校1年生から6年生まで書き綴った文集を載せる。この文集は、第2次世界大戦が始まった小学校5年生の時(昭和16年)に、担任の先生から「これまで書いてきた作文は、立派な遺稿集となる」と聞かされ、小学校入学以来の作品をまとめ残したものである。『御坊ゆかりの先人たち』「一本の杭―自然を愛した人・黒田隆司―」の中で、この文集にふれた山本栄美は「雲にも月にも、田に水を引く水車にも、また植木鉢のコケや春に芽吹く雑草まで生命あるものとして見つめ、羽化する昆虫のサナギを観察したり、金魚のしに涙したり、・・・・・どんな小さな生命にも優しい心を注ぎ、思いやりと尊重を忘れない少年」と記している。
このほか黒田が書き残した原稿のうち、部員とまとめた調査・記録の一部は『川の中の杭』に、また市町村史・広報・鳥信の原稿が存在するが、ここでは『いつのまにか』から黒田隆司の言葉を取り上げ、その人柄なり、自然への思いを紹介したい。
『もしも生物部に入っていなかったら』から
「調査には確実な同定(種類)カウントすること、それを続けることによって、すばらしいデーターがあがってきます。それを読み取り、自然の変化をキャッチし、それを保護へと進めていくわけです。そういう意味において調査は重要な役割を果たしているわけです。そして、これは絶対続けてゆかねばならないと思います。」
1983年1月29日生物部の送別会で。黒田隆司は日高地域でフィールドを4ヵ所設け、毎月2回、一定地域内の鳥の種類と数を数えることと県内に約300ルート設けて歩きながら見たり聞いたりした鳥をメモしていく、いわゆる絨毯(じゅうたん)作戦で県内の鳥類目録などの完成をめざした。定期調査が月8回あるから休日にリュックの上に寝袋とテントを結びつけ、熱い真昼も寒い朝も野宿しながら年中歩き続けた。
後に、データーの分析の結果、貴重な生物の生息・繁殖・渡来が確認されたり、昭和45年にDDT・BHCなどの農薬が禁止されてから急速に鳥類が増加してきたことや警戒心のない鳥が増えて人間の済む市街地に進出してきたことがわかった。また、これらの基礎資料をもとに日高川猟銃禁止区域、美浜町弁天島のウミネコ集団渡来地への立ち入り禁止、和田不毛鳥獣保護区、大塔山鳥獣保護区が結実している。
『私たちと自然』から
「野鳥の住めない環境には人は住めないと思います。それは生態系の頂上に人がいて、その底をを支えているのが鳥だからです。人は快適な空間と快適な暮らしを求めて技術開発を行ってきました。そのためには地球上に存在する化石燃料や熱帯雨林などの資源を消費してきました。その結果地球環境が取り返しのつかないほどに汚染され、自然破壊によって地球全体の生態系が危機に瀕しているのです。私たちは今、自然再生、地球再生のため自然と共存できる技術の開発や、地球生態系を守る法律や条約をつくることも大切ですが、私たちも環境問題の加害者であることを認識し、一人ひとり何ができるかを考え、真剣に取り組まねばならないとおもいます。・・・・・中略・・
そこで私たちは、原生林や湿原のように人を入れてはいけない聖域として残さなければ成らない地域と、自然と共存してゆく地域、そして自然を復元しなければならない地域にわけて考えてゆかねばならないとおもいます。」
1990年10年13日の御坊市民教養講座で。当時は高等学校を退職し、生物部から離れて日本野鳥の会和歌山支部の活動に軸足が移った頃である。過ぎ去った半生を振り返り、自然保護に対する具体的な方策と自己の進むべき軸線を示した一節といえる。
『生物部と私』から
「私の存在は、まさに川の中の杭である。水はよどむことなく杭のまわりで、渦を巻いて流れていく、彼らは渦を巻いている間に、自然という偉大な教師との出会いを果たさなければならない。」
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更新日:2023年06月15日