傷病鳥獣の保護記録

更新日:2023年06月15日

和歌山県御坊市付近における傷病鳥獣の保護記録(1975年2月~1998年3月)

序にかえて

監修:黒田 隆司(1998年4月著)

 

黒田 隆司氏の写真画像

 自然は多種多様な生命の集まったもので、それらが調和のとれた生態系をつくっている。従って自然を大切にするということは、生命を大切にするということでもある。

 日高高校生物部が、鳥類の調査に取り組み始めたのが1965年頃である。生息環境の違う日高川河口の干潟、日高川下流域野口橋付近、煙樹ヶ浜松林、そして美浜町水田(通称和田不毛)の4フィールドで月2回のカウントや和歌山県全域にわたって生息調査(リュックを担いで、ロードサイドセンサス)を実施してきた。そして、現在も継承され、貴重なデータを積み上げている。

 「同定すること」「カウントすること」「継承すること」言葉にすればたったこれだけ。しかし、寒暑あり、風雨あり、継続することは決して容易ではない。そのことが次第に市民に広がり、傷ついた鳥たちが生物部へ持ち込まれるようになってきたのである。

 1987年7日21日付け朝日新聞の天声人語の一部を引用すると
・・・この学校の生物部が野鳥保護の実績で有名になるにつれて、土地の人が傷ついた鳥を持ち込むようになった。それを生徒たちが世話をする。世話といってもなみたいていではない。鳥によってエサが違う。ツバメは虫で、ワシタカ類は肉だ。カワガラスの場合は水生昆虫をとりにゆく。

ヒナは生徒が家へ連れて帰る。夜中でも一時間ごとにエサをやる時がある。「自然は命の集まったものです。傷病鳥の世話は命を大切にすることです。生存競争に負けたものに思いをいたすことです」と黒田さんは言う。放鳥率は50%強だから、世話をしている最中に死ぬことも多い。死ねば悲しい。けれども放鳥の喜びは格別だ。

5月衰弱したホトトギスを市民が持ち込んだ。生物部が預かる627番目の傷病鳥だった。やがて元気になったが、渡りの仲間はすでに北に移動している。生徒たちは、OBの運転する車で北上し、ホトトギスを奈良の森に放してやった。拍手をあびて、鳥は木の枝に止まり、しばらくこちらを見てから一直線に森に消えた。「自然は頭で考えるものではない。肌で感じるものだ」という黒田語録があった。・・・
奈良の森とは大台ケ原のことであり、あの感動は今も忘れることはない。

傷ついた鳥や病んでいる鳥に思いをいたし、それを看病し、元気になったら野に放す。放すタイミングが甚だむつかしい。人に馴れると、自らエサをとれなくなってしまうから、放鳥を急がねばならない。放鳥の喜びは格別である。この体得によって、人生の基本姿勢が決まるように思えてならない。(中略)

傷病鳥の飼育はなみたいていのものではない。1973年5月28日、御坊市塩屋町の竹林から道路に飛び出したカルガモのヒナ6羽が、市民に保護され持ち込まれた。当時部長のN君は、徹夜でヒナを抱いて温め、エサをやり育て、何日もかかり、遂に6羽とも放鳥に成功した。東京で工場長を務めるN君は「今でも、その時の苦労と喜びは忘れていないし、私の人生を変えるような出来事であった」と言う

(中略)

1985年7月12日の夕方、大成中学校の女生徒が、瀕死のニホンザルの子供を抱いて飛び込んで来た。背中の下の方に穴があいていて、出血し、ぐったりしている。早速、手当てをしてケージに入れる。一夜明けるとぴんぴんしている。ホッとして好物のリンゴを与えようとする。飛びつくように私を威嚇してくる。驚くと同時に、助けてやったのに・・・。しかし、その時ハッと気づく。そうだ、あの時、消毒液をたっぷり塗って、痛い目をさせたのは私にほかならない。そこで、その時いなかった女性部員にリンゴを差し出してもらうと、喜んでそのリンゴを彼女の手から取り、ほおばる。私にとっては助けたことが、サルにとってはいじめにほかならなかったのである。

死体や断念なことに死亡した鳥は、学校の冷凍庫へ一時保存し、許可を得て、まとめて山階鳥類研究所や自然博物館などへ送られる。

(中略)

私たちが迷い込んだと思われるようなヒナは、実は親が用心深く姿を隠して見ていることが多い。なるべくそのままにしておくことである。傷ついてどうしても保護の必要があるときは、腹部を押さえないように、人差し指と中指の間で頭部を安定させるように、上から軽く手掴みし、ダンボール箱に入れ、専門家に相談することである。(後略)

 

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