御坊における昭和南海地震
1946年 12月21日 午前4時19分 発生
マグニチュード 8.0
体験者の声
北塩屋区 当時小学校4年生
- 何時間か眠って、「地震や」言うて飛び起きた。
親父は枕元の着物抱えて走ろうとしたら後ろへ引っぱられて動かん。
よう見たら枕元の電気コード一緒に抱え込んだった。真っ暗やし、急いだったんやろな。 - (阪神大震災の時の揺れと)比べもんにならん程大きかった。
(昔のタンスやさか)取っ手がガタガタと鳴った。 - その当時は、空襲なんかで(逃げるのには)馴れてたさかな。
防空頭巾も各家庭にあるしな。 - 中山へ逃げてんけど、その当時は各家に牛飼うたるさか、牛殺したら七代たたると言われてた時代で、牛を先に出さんなん。
牛連れて今より狭い道へ殺到したさか、ごった返した。 - 小学校の教科書で、浜口梧陵の話なんかで山へ逃げること知っていた。
- 隣の人が産気づいてな。途中でワラしいてそこ(中山へ行く途中)で産んだよ。
湯もないのに、どうやったんやろな。その時産まれた子供、今でも近所に居てるけどな。 - それぞれ分かれて逃げたんで、「わしとこの子供ない。他へ逃げてくれたったらええけど・・・」とか言うて騒ぎやった。
今はわしとこの家族は何かあったらどこて決めたある。 - その当時の地形は、もうだいぶ変わったらな。国道(42号線)もないし、低い堤防あるだけで、ずーと浜やった。
- 夜が明けるまで山にいた。明るくなってぼちぼち降りてきた。
上野区 当時21歳
- 地震揺って、すぐ家まで飛んで帰って、「津波来るかもしれんさか、船上げとこら」と親父を起こいて、そこまでで5分ぐらいかからな。
- 昭和19年に勝浦で津波あったのを知っていたので、(津波は必ず)来ると思った。
(昭和19年の時には)ここでも岩が浮き沈みしていたぐらい、ちょっと(津波は)あった。 - 初めいったん(水が)引くて言うけど、引かなんだ。波が直接来た。
- 船、だいぶ流された。27メートル程ある地引船、国道から500メートル程上まで持っていかれたった。
- (当日の夜は)満月だった。風ら、いっこもなかった。
- (前日、ウタセ船で出漁したが)潮、がいに早かった。岩代まで流されたもんもあった。
(漁は)大量だった。潮が早かったんで、簡単に仕掛けたけど、一杯とれた。 - わいは、見やなんだけど、(地震起きるとき)火柱あがった、て年寄らに聞いた。
- 名田で、こけた家ない。ここらへん(上野漁港から上野川上流)浸かったぐらい。
- 地震は、大きかったよ。揺れてる時間長かった。飛び出したけど、道歩けなんだ。
楠井区 当時27歳
- 地震のあった12月といえば、イモ、麦の収穫が終わって、切りイモの最盛期やった。
浜へムシロひろげて、切りイモを干したった。ムシロは流れなんだが、イモ種、全部流されたった。 - 沖に置いていたエビ網は無事だった。浜に置いたったら、流されたやろな。
- 妹に(船のことを)言われて、初めて気が付いて、浜へ走ったが、第1波が来た後だった。
- 旧国道へは、波が乗らなんだ。(楠井川に沿った)川すじの田少しぐらい。
南塩屋区 当時29歳
- 地震による家の被害は全くなかったが、部分的にひびの入った道は見たと思う。
- 南塩屋の船付け場にあった船は全て流された。
- 津波の後、タコがたくさん打ちあげられていた。
- 津波が来るときはチャバチャバと静かな感じであった。雰囲気としたら、人が歩く位の速さでぽつぽつと来る感じ。
- 波がひく時は、海面が見える程浅くなり強い力で引いていった。昔からある南北の尾ノ崎の堤防ぐらいまで、海の底が見える程度の強い引き潮であった。
- 沖の方へ流された船の大部分は、引き波の強さで流されていった。
沖とは逆方向に王子川の中流(現森岡集落の西)まで流された船もあった。
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更新日:2023年06月20日