御坊ゆかりの先人たち 柏木 浅右衛門・鈴木 立庵
池の開発
柏木 浅右衛門 ・ 鈴木 立庵
江戸時代、池の開発に活躍した2人の人物がいました。1人は柏木浅右衛門で、浅右衛門は江戸時代(寛政年間)末期、東内原村(現・日高町)荊木に生まれました。
その頃、上富安・下富安・荊木に広がる段々田んぼは灌漑用水が得にくく、長い夏の間谷川から水を汲み、稲の一株一株に土瓶でかけて回るといった重労働で、干ばつに悩み・飢饉に苦しむ人々の生活を見て成長しました。
水さえあれば救われる。彼は東谷(御坊市北端)に溜め池をと一念発起して、単身わか山近郷に出稼ぎし、川や池普請に従事して腕をみがきました。天保8年故郷にもどり、東谷に新池築造の私案を村人に説くも、ことのあまりにも壮大な計画に人々はためらうばかりでした。
浅右衛門は私財一切を投げだし、労力総てを奉仕して池普請に情熱を傾けていきました。
半信半疑の村人も情熱にもえる彼の姿に励まされ、たちまちにして一万有余の人々が、伊勢参宮講を結成して経費をととのえ、大事業に着手してゆきました。
しかし、浅右衛門は辛労のあまり病を発し、天保9年(1838)4月、工事半ばにして逝去したのでした。
その後、天田・入山組の大庄屋が遺志を受けつぎ、天保12年(1841)ついに堰堤(えんてい)76間(137メートル)の大貯水池、新池の完成を見たのでした。
以後160余年、上富安・下富安・荊木にまたがる150町歩の豊かな水田は、今も恩恵を受けていて、新池築造の発起者、柏木浅右衛門は忘れてはならない郷土の恩人なのです。
もう1人の恩人は鈴木立庵です。鈴木家は代々医業を継ぐ旧家。名医として広く名を馳せていました。第6代鈴木立庵は岩内村(現御坊市岩内)に生まれ、江戸(天保)時代に偉業をなした郷土の恩人です。
その頃、岩内の田地は畑やろうそくの原料となる櫨(はぜ)畑がほとんどでした。わずかの水田も水がかりが悪く、日照の夏など農家は日高川から水を汲みあげて来て稲株に土瓶でかけて回るといった重労働、苦難を強いられていました。
医薬業のかたわら篤志家として名声高い第6代鈴木立庵は、人々の干ばつに苦しみ、田地の少なさに心を痛めました。彼は私財を投じて、熊野、後谷池(堰堤約40間)の大改修を発起し、工事を完成させました。さらに池から長短3つの導水トンネル掘削を計画、立案し、敷居を用いて水を流すなど傾斜を計り苦心さんたんの末、岩内までえんえん、2000メートルの灌漑用水路を築造して、岩内・熊野に約40町歩の水田の開発を見たのでした。
岩内村のため尽くされたその功労・偉業は多大なるものであり、子々孫々村民から尊崇されました。岩内村の人々にとって第六代鈴木立庵はかけがえのない恩人なのです。

鈴木立庵の生家(岩内)

今も水をたたえる新池(富安)
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更新日:2023年06月15日