御坊ゆかりの先人たち 大佛 次郎
日本文学界の重鎮
大佛 次郎
昭和の文豪として、大衆文学に空前絶後の人気を集めた大佛次郎。ペンネームの由来は鎌倉の大仏裏に住んでいたからだと言われますが、簡単な由来に反して「大佛」をダイブツとは読まず「オサラギ」と読ますところは、さすがです。作家たちの間では、大作家と呼ばれ、泉鏡花、谷崎潤一郎らに続いて昭和の時代には大佛が、日本の文壇の特別席とされる地位に座った人物だと言われています。
この日本を代表する作家・大佛次郎は、本名を野尻清彦といい、明治30年(1897)10月9日、父政助47歳、母ギン40歳の時に、3男2女の末っ子として横浜市に生まれました。
父政助は、江戸時代に道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたり、嘉永3年(1850)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社、勤勉実直な人でした。
息子である大佛次郎にとって父政助は、厳格で怖い存在だったらしいが、読書好きで若い頃から狂歌を作っては「文芸倶楽部」に投稿し、何度か一位を受賞する腕前で、この文芸趣味が大佛や長兄の抱影(正英・文学者)、次兄の孝ら野尻家の兄弟に大きな影響を与えたようです。
また、昭和22年12月に御坊を訪れた大佛は、道成寺にある先祖の墓に参り、先祖が大工であったことを知ると、「私はそのことにひそかな誇りを感じた。私は小説を書いていて、言葉の大工である。木口を選び、自分でかんなやのみをかけて、この堂を普請したのと同じく、言葉をすぐって、あとに残るような仕事を、出来ればしたいと望んでいるのである」と、深い感慨を抱いたそうです。
この翌年に、大佛は当時としては国際的な現代小説「帰郷」を発表し、二十五年この作品で芸術院賞を受賞します。第2次大戦の最中(昭和18~19年)に同盟通信社の嘱託として東南アジアの視察に訪れた際、日本人の占領軍としての外地での誤った行為に衝撃を受けた体験を参考にして書かれた同作品は、軽率な植民地文化とアメリカ軍の占領政策批判を基調として、主人公の節度ある人間としての美しさが、汚れた風潮の中で読者に深い感銘を与え、イギリス、フランス、イタリア、中国語訳されて、日本文化を紹介することになりました。続いて、御坊市内の旅館でもペンを執ったと言われる「旅路」、「宗方姉妹」また「パリ燃ゆ」、「天皇の世紀」など、次々と作家としての本領を発揮する作品を発表しました。
しかしながら、大佛次郎の活躍は大正13年、その名を文壇にデビューさせた「隼の源次」さらに「鞍馬天狗」の娯楽時代小説に始まり、子どもから大人まで多くの読者を長年にわたって楽しませてきたことです。登場人物の行動や言葉には、他人にかける慈しみや、全ての人を平等に重んじる心などヒューマニズムが溢れ、また大佛の人柄も感じられます。
正しいと思わないものには、どこまでも抵抗する意思と、人間的に卑しいことは自分に許すことができない心をもつ大佛は、小学5年の時に投稿した「二つの種子」に表した「勤勉と誠実」の生き方を通した人でした。
新聞小説作家としての人気も絶大で、17のペンネームを使い分け、多い時には4紙にそれぞれの作品を連載。大正15年の「照る日くもる日」から昭和42年の「天皇の世紀」まで、約50年の作家活動で61編の作品を書きました。
すぐれた小説を発表し、日本の文学界の進展に努力した功績で昭和39年11月に文化勲章を受章。昭和48年(1973)転移性肝ガンにより、75歳で永眠。その後、業績を称えて「大佛次郎賞」が制定され、53年には横浜市の港が見える丘公園には「大佛次郎記念館」が開館されるなど、大佛の偉業は後世に長く伝えられています。
日本文学界の重鎮、大佛次郎は父政助を通して御坊人の血を引く、ゆかりの人物であることに誇りを持ちたいものです。

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更新日:2023年06月15日