御坊ゆかりの先人たち 日高 昌克

更新日:2023年06月15日

清高の画家

日高 昌克

 新しい水墨画の境地を切り拓き、清高の画家として高く評価されている日高昌克が、本格的に日本画をやり始めたのは、昭和12年(1937)東京資生堂ギャラリーで初めて個展を開き、画業専念のため東京杉並区に移り住んだ頃といえます。
 時に昌克54歳、画名を生国の日高にちなんで日高昌克と改め、それまでつちかってきた医業のすべてを捨てての出発でした。
 日高昌克(池田昌克)は、明治14年(1881)6月14日、御坊村西町(現御坊市西町)の医師、木村元寿の長男として生まれました。母の名を飛佐といい、父は華岡青洲のもとで塾頭をつとめた人で姉が3人いたということです。後に、和歌山市の親戚池田家の婿養子となりました。
 明治31年(1898)に亡くなった父の跡をつぐため、京都府立医学専門学校に入学、卒業後は一時医師としてつとめ、医院を開業するものの、さらに勉強のため、明治39年(1906)に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科教室に入室、明治42年(1909)には日本赤十字社和歌山支部病院耳鼻咽喉科初代医長に就任、2年後に和歌山市南汀丁(みなみみぎわちょう)の自宅に医院を開業しています。
 これ以降は生活も安定し、若い頃から興味をもっていた日本画を習い始めます。画を通して野長瀬晩花・榊原紫峰らとの交遊が始まるのもこの頃からで、博物館の古い名画と接して日本画にますますひかれ、当時傾倒していた橋本関雪や富岡鉄斎の門を叩いています。
 特に、鉄斎からは、「わたしは弟子を取らぬことにしている。わたしもこれという画の師匠にはつかなかった。古画と自然とを師と仰いできた。あなたのやっていることは正しいと思う。それを推し進めて一派を立ててはどうか」といわれ、この時の話がその後、いずれの画壇にも属さず、独自の画風をなしていく昌克に大きな影響を与えたといわれています。
 このほか、医師仲間とはかつて立ち上げた黒鳥社(こくちょうしゃ)の同人としての活躍も見逃せません。
 第1回展覧会は、当時の地方としては規模も大きく、日本画と洋画部門をもった画期的な公募展で、県内初の催しでした。その後、黒鳥社は、和歌山画壇の母体となる和歌山県美術協会の下地となりました。
 このように昌克にとっては、この時期は日本画に親しみ、画業を通して交遊を広め、よりどころを模索していた段階といえます。だから、作画そのものは、南画風あり、大和絵風あり、克明描写ありといった具合であるが、第六回国画創作展に「風景(池)」が入選をはたすなど、技量に一定の高まりがみられます。
 ところが、晩年の人生を画人としての道を選んだ昌克の東京での生活は、それほど長く続きませんでした。一時、美術工芸学院の教授として芸術論と水墨画の実技を教えたりしたが、2年ほどで去ることになります。この間に満州国の写生旅行、個展の開催、そして、作画と画業に没頭する日々で、昌克にとっては、最も楽しく過せた時ではなかったかと思われます。
 昭和16年(1941)東京から帰ると、持病の関節リューマチが悪化し、歩行・作画が困難となり、さらに空襲で自宅と収集していた大事な美術品のすべてを失うなど、心身共に大きな痛手を受けたが、画を描きたい思いは強く、戦後ようやく作画できるまでに回復しました。
 しかし、この頃は、最も得意とする山水を主なモチーフ(注釈1)に水墨画を描いてみたものの、満足感を覚える作品が思うようにできなかったようで、日記がわりにしていた手帳には、「画を描く ミレー及後期印象派の画を見直す 画技ゆきつまる 転廻を要す」「画想ゆき悩む 何で深い画が出来ぬか 私は駄目か」「絵出来ず 自己の天分を疑う」などと記し、時には旧作を回収し破棄したりしています。
 ところが、昭和28年(1953)6月東京壺中居で陶芸の川喜田半泥子との合同展で発表した着彩画が、谷川徹三・林武・福島繁太郎・佐藤春夫らの目にとまり注目されます。これは昌克が墨のみに執着して、マンネリズムにおちいる危険を防ぎたいとの理由で始めたもので、従来の水墨(若干の淡彩を含む)のみの世界に対し、水墨を骨格(こっかく)にしてそれに岩絵具で肉付けをしていく新しい試みでありました。
 その後、日本画と洋画の調和をもって新しく切り拓いたこの着彩画の画風は、「20世紀のもっとも美しい印象派的絵画である」とか「東洋と西洋の出会い」、あるいは「東洋風と西洋風の成功した融合統一」と評価されました。これを境にして個展の回数も増え、昭和32年(1957)には和歌山大学学長岩崎真澄などの助力もあって、アメリカのフィラデルフィア美術館美術大学で、また翌年には同展の好評によってサンフランシスコ美術館、サンディエゴ美術館で個展が開催されるなど、晩年に花が開いた日高芸術の独自性が一部の人達であったが認知されるまでにいたりました。それでもなお、「自分の画業はまだ道半ばで、将来、水墨画によっても着彩画と同じような色を感じさせる作品を生みだしたい」と語り、自己の画業追求に対する意欲をますますかき立てていたが、昭和36年(1961)7月20日、79歳にて死去。
 なお、日高昌克に関連して遺稿集「清虚」と「日高昌克画集」が刊行されています。

注釈1: 芸術作品の制作の動機となる中心思想

日高 昌克

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