御坊ゆかりの先人たち 戸田 実

更新日:2023年06月15日

社会事業に貢献した実業家

戸田 実

 「徒手空拳」「裸一貫」という言葉があります。「自分の身体のほかには何の資本も援助もない」という意味ですが、戸田実はその言葉どおりに誠実で正直、熱心な仕事ぶりで得た「信用」だけを基に、一代で戸田商店をはじめ戸田汽船(株)、日東海上火災保険会社を設立。そのほか友人と協同で数社を経営して取締役を務め、さらには頼み込まれて地方産業を発展させるため故郷の和歌山、御坊に戸田銀行、日高紡績会社を起こした特筆に値する実業家です。
 また、家事の都合により学業を中断しなければならなかった自らの経験から「戸田奨学金」を設けて、多くの苦学生を援助しました。その中には有望な外交官や大学教授が生まれるなど、社会的な事業に惜しむことなく私財を投じた戸田を「恩人」と語る人は多い。
 戸田は、明治8年(1875)12月12日に日高郡藤田村(現御坊市藤田町)に生まれました。父彌三郎は和歌山藩士で、廃藩後は日高郡役所に勤めて藤田村に住みました。
 地方産業の開発に熱心な人で、村内に養蚕を奨励して桑苗を植えてまわりましたが、明治22、3年と続いた紀南大洪水でそれまでの苦労は水の泡となりました。
幼い頃から大人たちを感心させるほど賢く「神童」と呼ばれていた戸田は、当時、御坊小学校から和歌山中学へと進んでいましたが、止むを得ず中途退学することになります。
 その時、戸田を励ましたのは、「学問するよりも傑人に従って鍛錬を受ける方が得策だ」という母方の祖父の言葉でした。
 戸田が勇猛果敢な志を立て、神戸海運界の開拓者である佐藤勇太郎氏を訪ねたのは十八歳の時。以来、佐藤氏のすぐれた人格に感化され、人々の信頼を得て実業家として成功を収めた戸田の人間としての基礎を築くことになります。
 「商人は誠実を旨とし嘘をつくべからず、但し秘密は厳守すべし」との佐藤氏の訓言、また「着実にして勇敢なれ」「仕事のために仕事せよ」「卑しからざる紳士たれ」などの口癖を耳にし、さらに部下の失敗はとがめず、病に伏して出勤できない者には特別の手当てを与えて全快を祈る氏の姿に、戸田は絶大な尊敬の気持ちを抱いて懸命に働きました。
 その間も、戸田は自分の生活は質素謹厳にして支出を押さえて、その分を下級社員や給仕たちの学資に当てて夜学へ通う援助をしています。
 戸田の仕事ぶりを信頼した佐藤氏は、10年も経たずして戸田を支配人に抜擢(ばってき)。戸田もそれに応えて手腕を発揮して利益をもたらし、佐藤のパートナーとして対等の地位に就くまでになりました。
 戸田34歳の時、日露戦争の反動で事業上の大緊縮に迫られた際、戸田は自ら申し出て「最高の俸給者」である立場を捨て、しかも恩人である佐藤氏の事業に差し支えがないように門司へと移り住んで、無一文で事業を起こすことになります。資金は全くありませんが、戸田には15年間、佐藤氏から受けた無形の財産、人間として実業家として培(つちか)われた「信用」が大きな自信でした。
 戸田商店は順調に発展し、3年後には佐藤氏の招きで神戸に本店を移し、さらに友人と協同で東和汽船株式会社を設立し、中国に支店を設置するなど貿易にたずさわるようになります。
 戸田の事業は機運に乗り、日東海上火災保険株式会社のほか数社の経営に及び、地方からの要請で和歌山、御坊に戸田銀行や日高紡績会社も設立します。世の中の状況を見通す力にもすぐれた戸田は、莫大な利益を上げ実業家として大成功を遂げました。
 しかし、戸田がその利益を自らのものとしたのは母親のために家を一軒建てただけで、あとは戸田奨学金や和歌山高等商業学校(現和歌山大学経済学部)設立費などの社会事業に使われたのでした。
 「利益を正しく求め、正しく散ずる正義の人」
 戸田実は、自らを育て生かしてくれた恩人知人への感謝と恩に報いる気持ちを終生持ち続けて、昭和9年(1934)3月に、58歳の人生を終えました。

ありし日の日高紡績工場

ありし日の日高紡績工場(御坊 島)

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