御坊ゆかりの先人たち 和田 勇

更新日:2023年06月15日

御坊市名誉市民第一号

和田 勇

 御坊市制50周年を迎えた平成16年4月4日、故和田勇は、御坊市名誉市民第1号として顕彰されました。また和田が貫いた「超我の奉仕」の精神を継承していくため、御坊ロータリークラブが「和田勇賞」を創設しました。
 和田は、明治40年(1907)9月18日、ワシントン州ベリングハムで、出稼ぎ漁夫としてカナダに渡った名田町祓井戸出身の父善兵衛と由良町戸津井出身の母玉枝の長男として生まれた日系2世です。
 四歳のとき日本の祖父母のもとに預けられ、御坊・日高で幼年時代を過ごしました。九歳のときアメリカに戻り、ハイスクールに通いながら働き、後にオークランドでマーケットを経営しました。しかし太平洋戦争が始まると、2つの祖国の間で胸をいためながら、130人の日系人を率いてユタ州に集団疎開し、厳しい自然と闘いながら共同農園を営みました。戦後はロサンゼルスに移り、「ファーマー・フレッズ・マーケット」を十七店持つようになりました。
 昭和24年(1949)敗戦後初めて日本が国際大会参加を許された全米水泳選手権大会では、和田は自宅を宿舎として提供し、選手団の食事や通訳等全ての面倒をみました。その結果、古橋・橋爪が世界新記録を樹立し、ほとんどの種目で日本が優勝し、「ジャップ」と呼ばれさげすまされていたのが、一夜にして「ジャパニーズ」になり、日本のみならず在留邦人にも勇気と誇りを与えたのです。
 この大会が縁で、岸首相からオリンピック招致の親書を受けます。そのとき和田は正子夫人にこう語りました。「東京でオリンピックが開けるなら、店のことなどどうなってもええと思うとる。マサと2人で、中南米の関係者にお願いしたほうがええに決まっとるだろうが。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。中南米のIOC委員が東京に投票してくれるように、全力を尽くさないかん。僕はそのことが僕に与えられた使命や思う。責務や思う。」
 そして40日間に及ぶ中南米2人旅が始まるのです。和田は日系人としてただ1人の招致委員会委員を委嘱され、特命移動大使級の権限を与えられました。しかし費用を日本側がもってくれるわけではありません。あくまでも私費。和田の持ち出しでした。そして大変な強行日程で、ときに2つのプロペラの一つがエンジントラブルで止まってしまうというアクシデントにもみまわれています。
 和田夫妻の熱意は中南米諸国のIOC委員を動かし、IOC総会の投票で日本が圧勝し、東京オリンピックが実現したのです。
昭和39年(1964)10月10日、東京オリンピック開会宣言に、和田は涙がこぼれてなりませんでした。「日本はこれで1等国になったのや。戦争で敗れて、4等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った。」
 東京オリンピックは、まさに和田が私財と命を懸けて実現した、戦後日本が復興・繁栄する為の一大イベントだったのです。その功績で東京都の名誉都民に選ばれています。
 昭和44年(1969)にはロサンゼルス港湾委員となり、日本の大港湾に貿易協定を呼びかけ、日米貿易の促進に貢献し、「日米の架け橋」とも呼ばれました。
 晩年はパイオニアとしてアメリカで苦労を重ねた日系1世・2世が安心して住める場所を確保する為、3世・4世が失敗を恐れず思い切って仕事をやれるように、「日系人福祉財団」や日系引退者ホームの建設・運営の為に奔走しました。人のためにわが身をささげた人物として「吉川英治文化賞」を受賞し、外国人としては異例の勲三等瑞宝章を授与されています。
 「僕は子供のころ、貧しい漁村で育ったんや。そこでは大人も子供も力を合わせて網を引く。水揚げが多かろうが少なかろうが、どこの家にも頭数に合わせて獲れた魚を分け合ってくらしていたんや。」という「助け合って生きる」和田の貫いた「超我の奉仕の精神」の原点は、四歳から九歳までのわずか五年間の和歌山での生活にあったといえるでしょう。
 平成13年(2001)2月12日、和田勇は、皆に惜(お)しまれつつ、93歳でこの世を去りました。にこやかにほほえむ遺影からは、和田が幼年時代和歌山で覚えた「淡海節(たんかいぶし)」や「鴨緑江節(おりょこうぶし)」を口ずさみながら、ふるさと御坊・日高を思い浮かべているように思われました。
 葬儀に出席した全米水泳選手権選手でオリンピック銀メダリストの浜口喜博(現水泳連盟顧問)から寄せられた、今まで知られていない和田勇のエピソードを一部紹介します。ここからも和田勇の人柄に触れてみてください。
 「全米選手権では、食うや食わずの時代に、和田さんに腹いっぱいご馳走になった恩義を考えたら、お骨を拾わせていただくのは当然です。自分の家以上に伸び伸びと過ごさせて頂き、その翌年、2月~5月、ブラジルから招待され、その往き返りにも当然のように泊めてもらいました。
 また、大映(映画)に入ってからは(1956)ロケ地がサウザンドウオークというハリウッド近くであり、1ヶ月近い滞在中休みの度にお邪魔をし、時には友達を連れて行ってもメキシコ湾で釣ったマグロの冷凍を出して刺身にしてくれました。これは和田さんが留守の時でも奥様の陣頭指揮で…。この様に自分の家に帰るように、アポ無しで、何時訪ねても嫌な顔一つせず迎えてくれたこと、今思えばなかなか出来ないことだし、忘れる事はできません。
 1976年のモントリオールオリンピックの後、競泳委員長を任された私は、監督として、モスクワオリンピックへ向けて強化に励んでいたが、残念ながらボイコット騒ぎで選手団まで編成しながら不参加となり、改めて又次のロサンゼルスオリンピックへ向かうことになりました。
 いかにすれば上位に入れるか、少しでも良い成績が残せるかに頭を悩ませ、1つの方法としてメキシコシティでの高所トレーニング(高所トレーニングがいかに有利か、今では女子マラソンの人達が証明してくれている)を選びました。メキシコには縁故の深い和田さんに泣きつき、橋渡しをして頂き、ロサンゼルスオリンピックの年まで3年続けました。
 いよいよオリンピックの年には、直前合宿を1ヶ月かけて現地で実施、最初の1週間は市長が和田さんと昵懇(じっこん)の方で日本びいきのガーディナー市に紹介して下さり、日本のチーム為に市営プールを全面的に使わせてもらい、2週目はメキシコシティ、3週目はクエルナバカ、4週目は再びメキシコシティに戻って強化。そして直前にロスへ降りて選手村に入り、オリンピックに参加しました。4週に分けた強化練習の度に和田さんには大変なお世話を頂きました。日本の体協傘下の競技団体で和田さんにお世話にならない団体の方が少ないのではないかと思います。
 和田さんと云う人は、人によって態度を変える事無く、我々に対しても、どんなに偉い人に対しても常に同じ態度で当たられる。私も80年近く生きて来て、いろんな人にお会いしてきたけど、和田さんのような人は知らない。あの人柄がなければ、東京にオリンピックを誘致する大事業の一翼を担うような仕事はできなかったと思えます。
 和田さんが御坊市名誉市民第1号として顕彰された事はたいへん嬉しい事です。(一寸遅過ぎとも思いますが…)和田さんは幾ら顕彰しても過ぎることはないと思える人でした。和田さんの本を目にして、何かを感じ奮い立つ子が沢山いる事を祈るばかりです。」

武道科学大学より名誉人文博士号を贈られて挨拶する和田勇

武道科学大学より名誉人文博士号を贈られて挨拶する和田勇

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