御坊の歴史 解説と写真(古代~近世)
1万数千年以上前から生活、堅田遺跡から国内最古の青銅器の鋳型
旧石器時代(今から1万数千年以上前)、御坊市では日高川より南の塩屋から名田にかけての海岸段丘上に立地する遺跡からナイフ型石器・スクレイパー・細石刃などが出土しています。和歌山県の中でも古くから人々が生活していた地域として知られています。
縄文時代後期ごろから平野部周辺では生活が営まれはじめ、小松原遺跡でこの時期の土器が出土しています。また、野口や塩屋・名田でも、縄文時代後期や晩期の土器や石器が出土しています。
弥生時代になると、水田を管理しやすい平野部に遺跡が集中するようになり、旧日高川の自然堤防上の平野部に東郷・津井切・小松原・蛭田坪・堅田遺跡などの集落がつくられます。特に、堅田遺跡からは三重の環濠を巡らした県下でも最も古い弥生時代の集落が見つかっています。集落からは、国内最古とされる青銅器のヤリガンナ鋳型が出土し、全国でもいち早く青銅器生産を行っていたと考えられています。
また、小松原遺跡の近くで1個、亀山で3個、道成寺の近くで1個、銅鐸が見つかっています。

堅田遺跡 遠景

有間皇子の有力墓「岩内1号墳」、道成寺創建と宮子姫伝承
古墳時代、東郷遺跡では水路の掘削など大規模な開発が行われ、各地と活発に交流していた事が窺がえ、この時期の日高平野における中心的な集落であったと考えられています。
古墳は、日高平野北側の丘陵地や日高川より南の海岸沿いで多くの古墳が築かれています。
尾ノ崎遺跡では、18基の方形周溝墓が築かれ、古墳時代中期前半に築かれた岩内3号墳からは、鏡・玉類のほかに多くの武器が見つかっています。後期になると、名田地域や天田古墳群など各所に群集墳がつくられます。
終末期の古墳には岩内1号墳があります。一辺の最長19.3メートルの方墳で、築造時期や銀装大刀などの遺物内容から有間皇子の墓とする説が有力視されています。
大宝元年(701)、寺伝によれば道成寺が文武天皇の勅願により、紀大臣道成が天皇夫人宮子の生誕の地に創建されたとあり、和歌山県内に現存するなかでは最も古い寺院です。
平城京出土の木簡に「財部郷」から塩を調として貢納していた記録があり、奈良時代には盛んに塩がつくられていたことが知られます。また、奈良時代の郡の役所が堅田遺跡で発見されています。
岩内1号墳
道成寺
中世「湯川氏の活躍と滅亡」
平安時代になると、朝廷・貴族を中心に熊野三山への参詣が行われるようになり、参詣道が逐次整理され、当市では、善童子・愛徳山・海士・岩内・塩屋・上野の各王子が祀られます。
中世、湯川氏が紀州の政治史に大きな位置を占めていました。室町幕府の奉公衆として活躍、丸山の地に亀山城、小松原に館を構え、戦国時代には、有田から牟婁地方まで勢力を拡大します。
11代湯川直光は、摂津の戦で苦戦していたときに本願寺に助けられたことから入道し、息子の信春を仏門に帰依させ、日高別院の前身となる吉原坊舎を建立します。
しかし、天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで戦火にかかり、湯川氏は滅亡してしまいます。

亀山城復元想定図

湯川氏館復元想定図
近世「寺内町の繁栄と日高廻船」
文禄4年(1595年)、浄土真宗本願寺の坊舎「日高御坊」(現在の「日高別院」)が建立されました。坊舎は土地の人から「日高の御坊様」、「御坊所」と呼ばれ尊敬を集め、坊舎付近は、「御坊東町箒はいらぬ、お御堂詣りの裾で掃く」という俗謡が伝わっているように、各地の特産物を扱う問屋や蝋燭・酒・木材問屋や綛屋(かせや)・油屋・薬屋・旅籠(はたご)が軒を並べ「寺内町」「在郷町」として大変栄えました。
産業の発達につれて、商品の取引が活発に行われるようになり、物資の集積地大阪と大消費都市江戸間の輸送手段として、名を馳せたのが日高廻船です。酒や有田みかん・日高蝋(ろう)などを江戸に下し、帰りには干鰯を積み、その全盛期の明和~天明(1764~89)には遠く北陸地方にまで出入りしていました。日高廻船は、たびたび遭難にあい、外国へも漂流しています。

日高別院
日高別院周辺に残る古い町並み(東町)
更新日:2023年08月07日